何を創るか、と、何が創れるか、の、違い。


別に何でもいいけど、何かを創ろうと思った時、その最初の出発地点というか、発想の原点の位置の違いっていうのは結構大切だよな、と思ったという話。


創った事ある人なら分かると思うんすけど、最初から頭の中に全てがあるわけじゃないんですよね。最初は漠然とした感じ。で、実際に創り初めて、どこかの地点で全容が見える。まぁ、その事に関しては下記の記事でも言及してるんで省きます。


「自分の意見がない」という意見が既に自分の意見になっている事実。 - どうしようもなくなったのでプログラムとかやる


出発点が違っても、創るっていう過程からみると同じこと。けれども、出発点の違いは結構でかい。土台がしっかりしていないと家が傾く。で、その出発点には、大きく分けて二つあるよなって事でして。


・何を創るか

要は、最初に創りたいもんを決めて、それに合わせて材料を揃えて捏ねたり、積み上げていったりするイメージっすね。


・何が創れるか

まず材料ありきだと思うんですよ、こっちの場合。で、材料の個性に合わせて作品の方向性を変えていく。丸太からの一刀彫りのイメージというか、木目を生かすように創るというか。もしくは、手に入る素材を一番生かせる調理法を選択するとかっていうイメージ。


補足しておくと、どっちもきちんとした事前準備とういか、資料とか、ロケハンとか、材料の調達とかは必要だと思う。けど、最初の出発点の思考法が違うと、当然必要となる技法も道具も変わってくるわけでして。後、モノによっては、明確に分けれないのもありますよ、と。こー言う事を、少しでも考えた事のある人には不要な説明だと思いますが、まぁ念のため。


ちなみに、僕はここ最近ようやっと「何を創るか」のタイプであると確認しつつあります。だから、僕の場合、入念な事前準備や、材料の準備が必要になる。当然、最初に書き起こした構成と、出来上がった構成が全く違うのもになる事もある。というか、ほとんど違っちゃうんですけど。でも、やはり、これをやっておくとやっておかないとでは、面白さに格段の違いが出る。


これを意識するかしなかの差はデカイよな、と。


ちなみのちなみに、浅見光彦シリーズの内田康夫は「何が創れるか」タイプらしいです。後書きで、プロットとか全く用意しないっつって公言しているんで。もちろん、ロケハンやら資料やらは、していると思うのですが、作品の設計図みたいなのを事前に作るタイプではないそうです。