馬鹿は調べない、観察しない


今までずっと、馬鹿は「考えない」とばかり思っていました。でも違いました。あれなんですね、馬鹿は「調べない」し「観察しない」のだと。そこにようやっと気づいた。基本的に、人間社会で生きている以上、或いは生きていられる以上、経験に基づいた何かしらの思考パターンは持っているんです。それが例え、希代の馬鹿だとしても。「考え」てはいる。


問題があったとします。賢い人は、まず調べる。本で調べる、その問題に対して経験豊富な人間に尋ねる、もしくは、その人の問題対処法そのものを観察する、つまり自分の目で見て調べる。自分の外にある情報をいかに効率よく使うか、を考える。或いは、もっと賢い人は、問題が発生する前に、問題に対する膨大なパターンを自分の中に蓄積しておいて、その都度引き出して対処している。


逆に、馬鹿はまず自分で考えようとする。他人の話を聞かないし、何よりも周囲が見えていない。自分の中にある、数少ない情報のみで対処しようとする。判断しようとする。僕の身近にいる、頑張っているのだけれどやる事なす事ずれていて、段取りが悪い人は、例外なく頑固だったりします。他人から指摘されても半笑いで上の空。そして、観察しない。調べようとしない。否、観察はしているんです。でも、その観察眼が偏っている。


素人の考えによる安易な心理分析はしたくないのですが、その手の人は、成長段階のどこかで、人の意見を聞くことと自分自身が傷つけられる事がイコールになっているんじゃないかと推測しています。他人の指摘に対する劣等感というか。何かしらのすり込みがされているのだと。自分の外側にある情報を得る能力に障害があると言うのでしょうか。


調べるという習慣がない。最近のネットの例でいうと、在日の人の年金受給に関する誹謗が2ちゃんねるのまとめ記事にあり、それに対する反論がはてなの匿名ダイアリーに書き込みされていました。そこで疑問に思うのが、その匿名記事の中でソースとして提示された、厚生労働省のエクセルのファイルを一体どれだけの人が、自分でクリックして自分の目で確認したのか、ということです。


或いは、2ちゃんのような場所で意識的にヘイトスピーチをしている者よりも、あの匿名記事にブックマークコメントで同意しながら、自分の目で資料を確認していない人達のほうが、自覚がない分性質が悪いのではないかなどと、穿った考えを持ってしまいます。


疑問に思ったことを調べるというと、本で調べる、インターネットのテキストファイルを調べる、まず文章を読むという発想になるのでしょうか。しかしとて、あまり本を読まないのだけれども、賢い人というのは確かに存在します。その手の人は、常人と比べて圧倒的に観察眼が優れているのだと思います。自分で調べる能力が高い。


学問でなく、芸能関係でも説明できると思います。面白い話をする芸人は、別に格別面白い体験をしているのではありません。日常生活においては、普通の人とあまり変わらない。けれども、彼らは普通の人と違い、常に面白いこと、笑える視点を探して生活している。常に、自分で調べながら生きている。


授業を聞いただけで理解するなどのように、理解力が高いとは、他人に知識を整理してもらわずとも、生の情報を聞いただけで知識化できる、自己調査能力の高さとも言いかえられるのではないでしょうかと・・・少し、かなり強引ですけれども。


そのように考えていくと、天才と馬鹿が紙一重も、観察眼が偏っているという点でイコールであるからだと言えるのかもしれません。僕の好きな天才の一人として、放浪の数学者ポールエルディシュがいます。彼は、数学者としては天才でしたが、生活人としては壊滅的に駄目だったそうです。


エルディシュが友人の夫婦宅にいつものように宿泊した時のことです。朝、夫婦が起きると、キッチンの床が真っ赤にそまっていました。その先には包丁を持ったエルディシュ。思わず悲鳴がでそうになった瞬間、エルディシュのもう片方の手に赤い液体の入ったコップが握られているのが目に入りました。さらに視線を移動させると、奥のテーブルの上にはトマトの柄が描かれたパックが置いてありました。


朝起きて、トマトジュースが飲みたくなったエルディシュは、冷蔵庫からパックを取り出したのですが、開け方が分からず、近くにあった包丁でパックを滅多ざし。開いた穴でもってトマトジュースをコップに注いで飲んでいたのでした。呆気に取られた友人夫婦に向かってエルディシュは得意げにこう言いました「どうだい、私だって自分でトマトジュースくらい飲めるんだよ」


・・・大分話がずれましたが、正月早々何が書きたかったというと、結局どこかでエルディシュのエピソードを書きたかっただけという良く分からん結論になって今年もよろしくお願い致しますという新年の挨拶に強引に変えさせて頂いて今日もお開き。